こんにちは。


検査や民間療法、そして意を決した手術となりました。人間の毎日使う箇所って、どう手術するの? となるでしょう。近年は日帰りで注射の手術があります。あの箇所に注射をするって… 
興味がある方のみ、よろしければご覧ください。

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   ☆


 二〇一七年は脱肛の年といっていい。前回述べたように、まず奥にイボ痔がある。だがもう一つ出来てしまった。それが徐々にウンコの度に脱出する。それを指で戻さなければならなくなった。

 民間療法もやった。卵油、ドクダミ茶、アロエ原液をスポイトで注入しては飲んでもいた。

 でもどれも治療には至らなかった。それどころか脱肛のイボが次第に大きくなるではないか。これには参った。やがて脱出のままになるのではと危機感が出た。出たままではパンツに擦れて痛むし、さらに大きくなるのも推測できる。

 脱肛というものは、そんな経緯をたどるようだった。

 なぜ痔になったのか。

 過去を考えると、子供のころ毎日ウンコは出なく、そういうものだと思っていた。だけど友人に問うと、一週間に一度では、宇宙人だ、といわれた。いまから考えればそうだ。正常ならば毎日出なければならない廃棄物なのだから。そのころの食生活といえばインスタントラーメン、カップラーメン、ハンバーグ、魚、焼き肉などだった。魚はそのころ嫌いで、よく残していた。野菜もほんのちょっとの食生活だった。

 十代後半もそんな感じだ。そしてトラックドライバーとなれば、外食ばかり。血圧が二〇〇近くに上昇したころ、内科の先生は驚き食生活を改めるよういわれた。そうしないと、成人病が次々と併発するといわれた。改善はそれからだった。

 というけれど、大好きな焼酎のお茶割りはやめられない。友人に誘われれば繁華街へ進出するし、二〇代なのに一人でも晩酌だった。

 痔か焼酎どっちをとるといわれたら、もちろん焼酎だ。いまではもう生活の一部となっている。

 それでも遅いだろうけど、野菜が主だった食生活となった。そんなころの脱肛だ。これはいままで蓄積した成果なのだろうか。

 まったくその辺の事情はわからなかった。肛門の調子のいいときが何年も続いたり、突然と赤い鮮血が便器へポトポト落ちるときもあった。トイレットペーパーにべっとりと付着したときは、死を意識した。ぼくはガン? それか腸の病気か。それが切れ痔と知ったとき、安堵の表情どころか酒盛りとなっていた。そんな自分へ過去の罰を神様が下したのかもしれない。

 その脱肛を治そうと今年は意識し、一一月の二〇日過ぎ、ようやく治療への決心がついた。

 それは近所へ、県内では名医の肛門の先生が清水から転院してきたことから始まった。

 なぜこんな近くに来るのかと、七月ごろ空き地の看板を見て驚がくした。『一〇月に転院。〇×肛門科クリニック』そのころといえば民間療法の全盛期だった。

二〇一七年の四月に手術を断わってしまった医院が一〇月にやって来る。

いくら近くでも検査の肛門鏡は痛いし、当然下半身丸出しの手術も嫌でたまらなかった。

 まず検査に行くしかない。そう決めたのが一一月二一日だ。

それは直腸指診と肛門鏡を受ける覚悟を固めたことになる。

 近隣なら空く時間を調整できるため、医院へ昼前に滑り込んだ。

 外観は木目調で肛門様の医者とは思えない高級感のあるクリニックだ。夜は小さなブルーライトが何列も建物を照らし、その輝く光景はイルミネーションといってもいいほどだ。

中に入ると新品のアクリルの匂いが漂い、待合室も清水のときよりだいぶ広くなった。

 問診票に以前お世話になったことを書き、もう一度受けることを丁重に書いた。

 そして呼ばれた。

 緊張マックスになる。


「はい、こんちは」


 変わらぬ男前の先生。年はぼくより二、三歳上のはず。


「また、よろしくお願いします」


「以前はキャンセルしたんですね」


「はい、ちょっとそこまで行くときが大変で、それがこんな近くに……」


 手術当日は浣腸を二つ投入しないとならない。自転車で行けば、途中で確実にトイレに行くことになる。そんなことを含めて断ったことを述べた。それに近隣に転院した理由を聞くと、こちらの方に元々住んでいたのと、清水は借地だったのでこっちへ買って建てたという。ぼくは納得し、意を決した。


「……あれからイボが大きくなりまして……」


「そうでしたか。では見てみます」


 とわれ、ぼくはどの肛門科でもやったようにカーテンで仕切られている診察台へ寝転がった。

 そして先生が入ったと同時に指が入った。それはまだいい。問題は次だ。猛烈にきつい鉄製が入った。


「うっ、うっ……いたたた」


「ああ、大きくなったね。これとらないとダメです」


 あまりにもぼくが体を動かすので、一度肛門鏡を抜いた。

 正すとまたぶすっと、鉄製品が穴をねじ込む。


「この手前のだいぶ大きいので、早めにとりしょう」


 そういうと、抜かれた。ぼくは寝たまま一呼吸する。手を額に当てれば脂汗が滲んでいた。

 看護婦さんに、終わりましたから、と。これが痔の検査だ。

今年だけで三回目、そのうち名医が二回目だ。


「では手術日は来週の火曜など」


 先生はパソコンをぼくへ見せる。


「最短ですか?」


「最短なら今週の金曜、一〇時があります」


 もうそこしかない。早めにあれを撃退したい。


「それでお願いします」


「わかりました。二四日金曜一〇時に入れます」


 とうとう脱肛の手術を決めてしまった。

診察室の横の部屋で、看護士さんから採血だ。そして当日のやること、費用、術後のことを聞いた。すでに清水のときに聞いていたので、まったく同じことをいわれた。

 そのとき浣腸の座薬があることと、パンフレットもあると伝えた。

するとその分、診察料から引いてくれるみたいだった。でも会計は四五九〇円だった。採血をやったのがそうさせたのだろう。

 もう脱肛とおさらばしたい。脱肛を指で戻したくない。経過を見るため変な格好をし、脱肛の写メなど撮りたくなかった。

 いまでは医院横には調剤薬局がある。医者が出来ればついでに薬局も出来る時代となった。昔は医者からそのまま処方されるのに、患者側からすれば面倒な時代となった。患者の負担金も掛かるのだし、医者側は楽になった。

なるべくギリギリまで医者に行きたくない。それで血圧もサボったりする。余分な金を失いたくない。厚生労働省よ、くだらんことをしないでくれ、といいたい。

 三日後の二四日の朝。

 六時四五分起床。少し昨夜の酒が残った。

起きた途端、なにも食べられないことを悟る。

 水くらいいいだろうと飲む。そしてトイレに入り、便意を待った。

 すぐに催し、終われば脱肛を戻した。次に浣腸だ。二個お尻へ連投しないとならない。予想でなかなか入らないだろうと思う。以前、押し込むのに苦戦したからだ。

 パンツを脱いだまま、部屋で投入した。一個目はそれでもすんなりと入った。問題は二個目だ。入れたばかりなのか肛門も拒否をしている。自分の意志と肛門様は別物という生き物か。腸が操っているのかもしれない。一個は入れてやったが、二個とは聞いてないぞー、と聞こえる。そんな空耳を感じながら無理に押し込んだ。

でも指を放せば半分出てきてしまった。押してそのまま指で栓をするようにした。

 そして十数えると、どうも入ったようだ。立っても出てこない。

 ため息が出た。こんなことをするのがバカらしい。

 布団を干したりしていると、便意がやって来た。十分ほどだった。

 浣腸はアダルトDVDで女がやられているのを見たことがある。

 茶色い水が噴き出していた。それほどまで浣腸は効くのだろう。

 便秘の人は、こそこそと生活のために買っているのかもしれない。

 便秘は女性が多いらしい。でも自分は子供のころから当たり前のように便秘をしている。

 便座に座ると勢いのあるウンコが出た。水っぽくはない。さっき固まったのが出たばかりなのに、まだ残っていたのか。とりあえず終えた。

 しかし三分後、また便意だ。一人生活でいいことはトイレが自由に使える。五人生活だったころ、朝のトイレは困った。

義父、弟、妹、自分のトイレ争いがあったから。ほぼ入る順番が自然と決まっていた。トラックドライバーのころ、朝が早い時があり、義父が何度もトイレによってきた時がある。プレッシャーをかけていたのだろうか。

 そんなやり取りを一人ではないし、いつでもトイレは自由だ。

 今度は茶色の下痢の便だった。

 それから時間まで何度と便座へ座った。浣腸は二個もいらない。一個で十分とそのとき思った。ノロウイルスにかかったことがあり、便座に座りっぱなしたったことがある。そこまでいかないけれど、普段の下痢よりひどいくらいの便意だった。

 ようやく収まったのは九時十五分だった。院内へ九時半に入らないとならない。近いため余裕で間に合うのだ。

 同意書などバッグへ入れ、サイフの中身を見て治療代を確かめた。

五分前では歩くと間に合わないだろう。自転車で向かった。

麻酔をするのであっという間に終わり、痛くないと思っている。

この思い込みが間違いだった。

 医院駐車場は満車に近い。院内に入ると広くなった待合室は四十人以上はいた。九時半では最も混雑の時間かもしれない。でも初診と手術の日だ。毎日こんなにも初診患者がいるのなら、評判のいいことが一目瞭然だった。

 受付に手術同意書と診察券を提出。

 呼ばれるまで待つようだ。診療室の方から男性の声がする。看護婦が声を大にしている。認知症の年寄りに話しかけているようないい方だった。


「ね、これから手術するの、ここで着替えないと……」


 手術とわからないのか。奥さんのような引率者はいるようだが。

 次々にマイクで名医が患者を呼んでいる。

 初診患者の痔の検査をし、終われば手術という具合なのか。同意書には十分から三十分内の手術と書いてあった。

よくそんな器用なことが出来る。ここは大腸内視鏡と肛門科だ。

どんな患者も肛門を診るのだろう。常に直腸指診はしないとならない。

待ちながら先生は何千人の肛門へ指を入れたのか、なぜそんなに肛門が好きなのか、とにやにやしているときに看護師が名を呼ぶ。

 待合室から診察室の方へ向かうと、ちょうど認知症の年寄りが看護師と手術室へ入っていく。


「……こちらの更衣室でこの手術着に着替えてください。パンツは穴の開いた方をお尻にしてください。そしてロッカーのカギをして首に掛けてください。そしたらこちらのいすで待っていてください」


 ぼくは手術着を受けとると更衣室へ入った。

 更衣室も新築の匂いだ。紺の麻のような短パンに穴が開いていた。

 Tシャツと靴下はそのままだ。パンツを脱ぐとその短パンを履いた。そして水色の作務衣のような衣服へ腕を通しひもを結んだ。

 靴ではなくサンダルに履き替える。ロッカーのカギをして更衣室を出た。

 そして診察室一、二、手術室、点滴室と部屋が並ぶところの長いすへ腰かけた。すると便意を催した。

 ぼくは立ってうろうろとトイレを探した。待合室に一つある。でもそこへ行けば手術着なのでじろじろ見られそうだ。

 すぐ近くの角を曲がると、茶色のソファーがたくさんある大部屋のような待合室がある。そこへ何人もの人が座っていた。そこを過ぎると、個室のように並んだ机とソファがいくつもある。トイレはその近くにあり、十個ほどの取っ手が並んでいた。

 そのトイレへ大部屋から人が入った。ぼくは察した、大腸内視鏡の検査だと。午後がそのようだ。とても忙しい先生だ。午前は痔の検査や手術で、午後は内視鏡検査である。ただいえるのは、どちらも肛門からだった。

 トイレに入ると、薄紫の大理石に囲まれて、自動に便器のフタが開いた。最新鋭のトイレだろうか。検査の時も入ったが、汚物を察すると水が自動で流れる。肛門科だけあってトイレへの投資金も手を抜かない。

 便意はあるものの、水っけが少しだけ。もう出し尽くしたのではないのか。そう感じて脱肛を戻す。でも今日で終わりだ。

 便意は浣腸二個のせいだ。これではまだありそう。でもこのトイレなら何度入っても癒され、金持ちの気分になれる。

 戻るとき、さっきトイレに入った男性がまたトイレへ。ぼくと同じで便意だけで出ないのではないのか。

 大腸検査なので浣腸と、とてつもない下剤を飲まされたのかもしれない。ずっとトイレへ入っていればいいのに。

 長いすに戻ると、認知症のような年寄り男性が、点滴を押しながら看護師とともに手術室から出て来た。

 ふらふらしている。たぶん麻酔が効いているのだろう。そして点滴室へ入った。そのときマイクの声が患者を呼んだ。

 やはりそうだ。初診と手術を交互にしている。

 看護師が点滴室から出ると手術室へ入った。次は自分だろうか。

 ぼくは点滴室の近くに座っている。診察室の前には手術着の女性が座っている。あの女性の方が早く座っていたのでまだだとわかった。

 そして十分ほどして手術室から看護師が出て来た。患者の名を呼んだ。手術着の女性ではなかった。すでに手術時間の十時を過ぎている。それに女性の前にもいたなら、まだまだと知った。一体何時から自分の番だろう。

 看護師が点滴室の様子を見にいく。術後に気分の悪くなった人はいないかのチェックだろう。

 これでは三十分以上は待ちそうだ。そう思っていると手術着を着た女性がよって来た。


「手術ですかね」


 と、四十代前半の女性が話しかけてきた。この場で女性からとは珍しい。


「はい。お宅も」


 見ればわかる。不安だったので話しかけて来たのかもしれない。女性はぼくの横へ腰掛けた。


「そうなんです、もういつかなと。手術は何時からですか?」


「ぼくは十時です。お姉さんはその前からいましたね」


 待合室でうつむいていた女性だった。


「わたし、九時半の予定なのに……」


「手術はジオンですか?」


「そうです。それと切れ痔で、そこはなにをするのか不安で」


 と、うつむき加減でいう。黒髪は肩まであり、面長のぽっちゃりとした女性である。


「ぼくも最初は切れ痔でした……」


 三十代の切れ痔から、四月にジオン注射を断ったこと、民間療法を行ったことや近くへ転院したから治療を受けに来たことを伝えた。


「……一度断わったのに、よく手術をやる気になりましたね」


「近くになったことと、イボが大きくなったことが理由です」


「そんなに近いのですか?」


「自転車で五分以内ですよ。お姉さんは他の肛門科は行きました?」


 院内はクラッシック音楽が小さく流れている。ときおり看護師が小走りでやって来て点滴室をのぞいていた。


「ここだけです。前に来たときは手術をしないでいいといわれたんだけど、今回は手術しろといわれたの」


 話し終えたとき手術室が開いた。すると若い男性が点滴を押しながら看護師と点滴室へ向かっている。


「次じゃない」


 ぼくは女性に向ける。マイクからは患者を呼ぶ先生の声。


「わー、嫌だな」


 女性は目を細めて首を傾げた。


「肛門鏡はやりましたよね。自分すごく嫌で、あれやるとき痛みはなかった?」


「そんな痛くなかったです」


 小声で答えた。すでに手術のことで頭が一杯なのかもしれない。


「そうなんですか」


 といったとき、女性が立って手術室の方へ歩いた。

 その時、診察室から初診の患者が出て来た。

 だが、先生は次の患者を呼ぶ。よく考えれば、麻酔の用意などしなければならない。

 そして手術室も開き、女性が呼ばれた。目が合うとみけんにしわを寄せて切ない表情をしている。

 自分もそうなりそうだが、麻酔があるのでまだ強気だ。痛くはないだろうと。何本も歯医者で歯を抜いたし、首と背中、股間の脂肪も取った。ペニスのコンジロームも焼いた。これだけの外科的な治療をしている。コンジローム以外、麻酔が効いたため手術中の痛みはなかった。コンジロームは麻酔がないので、痛みは最悪だった。

 女性が入ってから、次は自分と思っている。

また便意だ。

 トイレから自分の名が呼ばれるのではと、耳をドアに近づけていた。水っけだけで戻ると、手術室から看護師が出て来て点滴室をのぞく。あの女性は点滴室に行ったのかもしれない。

 別の看護師が手術室から出て来た。いよいよ自分だ。

 違った。別の患者の名を呼んだ。まだか、とだれ気味になった。

 しばらく待っていると、点滴室からさっきの女性が出て来た。目が合うと、


「まだ?」


「まだです。手術どうでした?」


 ぼくの問いに彼女は、お尻を押さえ苦笑いでぼくの前を通っていく。ロッカーで着替えるのだろう。自分が女ならわかるが、よく男に痔の話しをしてくれたものだ。

 そしてとうとう呼ばれた。一気に鼓動が跳ねた。

 手術台があり、看護師がそこへうつ伏せで寝てくれと。

 てっきり検査と同じようにエビの形になるものだと思った。

 麻酔をするといわれ、左腕に点滴の針を刺している。だが、血管がよけるといい、失敗した。もう一人の看護師が右腕へ血圧計を巻いた。こんなことをするなど本当の手術ではないか。

 ショートヘヤーの看護師は二度も静脈麻酔を失敗した。

 だんだんと左腕が痛くなった。ずいぶんと下手だ。こんな看護師はいままでいなかった。かつての点滴や採血の経験上でわかる。

 そして三度目も失敗だ。血管はよけるものか、と疑いがわいた。

そのときとても左腕が痛くなり腫れている。なにをする。

『左腕が痛むんですが』と声を出す。

もう一人の看護師が逆にしようと、血圧計を左腕にし、その看護師が右腕に麻酔の針を刺した。それは一発で入った。ショートヘヤーへにらみそうになったがやめておく。

 次だ。突然パンツを下した。いよいよかと思いきや、肛門を開くようにガムテープのようなものをはられた。そして尻毛を剃られる。

 それはショートがやるので雑だった。

 血圧が二百以上あったので、看護師が降圧剤を点滴に混ぜるという。薬を飲んだか問われたが、しっかり飲んだと伝える。それにしても左腕が痛む。看護師は『痛いね』しかいわず謝罪はない。これでは名医というが、看護婦の教育がなっていないのではないか。

 それと右腕に刺した麻酔は効いているのか。うつ伏せだけど体がふらふらするという状態ではなかった。

 先生が現れた。すると手術台の上半身が下がり、腰部分のみ上がる体勢になった。とても見られたくない格好だ。


「では始めます」


 先生の声。問題は次だ。

 悲鳴の出そうな痛みだった。覚えはないが少しエビ反りになっただろう。


「い、いった……」


 あまりの衝撃に声が出た。周りはなにもいわない。

 それは肛門に局所麻酔をしている。それも何本もだった。

すべて痛く、疑問もわいた。静脈麻酔しているのになぜだ。失敗だったのか。本当は左腕にするのではないのか。そんな考えが少し浮かんだが、あまりの痛みで打ち砕かれた。

 これは拷問以外のなにものでもない。恥ずかしさなどもすでに飛んでいる。

 あのときだ。ペニスのカリ首に出来たイボを電気メスで焼く。聞いただけでも痛さがわかるはず。

 当時は局所麻酔が使えず、ない状態で行った。イボつながりで似ているが、あのときの痛さと似る。人生の衝撃的なことは記憶へ鮮明に残り、この手術もその一ページとなった。

 また心臓が縮んだ。なにか肛門の中へドスーンと電気が走ったような雷が落ちた。音が出るわけではないけど、そんな状態をお尻に感じた。なんだこれは、失敗か。薬の実験に使われる、モルモットはこのような状態なのだろう。

『終わりました』と先生の声。何分たったのかはまったくわからなかった。

 うつ伏せ上体がさらにだらりとしたとき、上半身が上がった。

 すでに先生はいない。看護師にパンツを上げられた。ポカーンとした状態となっていた。男が犯された場合、こんな状態だろう。


「では点滴室に行きましょう」


 ショートではない看護師さんと、その部屋へ向かった。そのときもふらつきはなかった。もしや麻酔が効いてなかったのか。とにかく激痛の衝撃か邪魔をし、手術の過程を振り返られなかった。

 ベッドに横になると少しは落ち着いた。

 静脈麻酔というのだから、麻酔だろう。ぼくは酒の飲みすぎて効かない体質なのだろうか。それなら全身麻酔でやってもらいたかった。

 看護婦が来て点滴を外した。


「ロッカーで着替えて待合室で待っててください」


 ぼくはお尻をなでながらうなずいた。

 一応終わった。これが手術だ。この痛みの中、例のイボが再度出たら文句たらたらとなりそうだ。

 着替え終わると、さっきの女性と話したくなった。自分より早かったのでもう帰ったかもしれない。急いで待合室へ行った。

 まだ席は半分が埋まっていた。見渡すが彼女の姿はなかった。

 特に麻酔のことを聞きたかった。

 席へ腰掛けるとお尻が痛む。この状態で便意を感じたらどうなるのだろう。

トイレで倒れるのかもしれない。幸いそんな催しは一切なかった。

 会計だ。二万近いといっていた。術後の説明があるのかと思えばなく、明日の診療時らしい。

 手術台は一万六千近かった。少し安い。


「切除の手術は行いました?」


 ドスーンの衝撃はそれなのかと。


「いえ、ジオンのみです」


「え、そうでしたか」


 同意書に外痔核の切除と書いてあった。あれを取らなくジオンのみで大丈夫かという疑問も出る。

 会計を済ませると処方された薬を取りに行く。横にある。

 会計は六百円ほどだ。こっちは安くよかった。内容は注入剤と痛み止めだけ。抗生剤がないので切ってないとわかった。どうせなら切ってもらいたかった。

 調剤薬局を出て駐輪場へ。はたして自転車へ乗れるのか。

 やはりお尻が痛く無理だ。仕方なく立ち漕ぎでスーパーへ向かった。

 自宅に入ると昼食のうどんを作る。朝からなにも食べていないため腹が減っていた。腸にはなにも入っていないだろうし。

 肛門になにか当てられていた。トイレで取るとガーゼだ。

汚れてないのでゴミ箱へ。その日、お茶割りはしっかり飲んでいた。

 翌日。

 なんとなく昨日よりお尻が痛む。お茶割がいけなかったのかもしれない。はたして便意を催すのか。術後のウンコが大事なはずだ。

 ジオン注射の成分はアルミニウムだ。それで小さく固めるらしい。ということは、腸が固まった状態なのだろうか。便が出るのか、脱肛はどうなったのかと、不安はありありだった。いつものようにバナナを食べて牛乳を飲んだ。

 とりあえず便座に腰掛けた。お尻は痛く便意はない。

 昨日の余韻が邪魔をしているのかもしれない。こっちとしては麻酔でてっきり痛みないと思っていた。その真逆さが衝撃的だったので、精神的にウンコをとめてしまったのか。

 しばらくしても便意はないためあきらめた。ジオン注を行った人がブログを開いている。パソコンの前に座るとそこを開いた。

 その人へコメントを送ったことがある。なぜなら三年ほど前にジオン注を行ったばかりにウンコが出なくなったらしい。毎度浣腸で便を出しているという。いまではそうでもないらしく、普段通りの生活をしているらしい。まさか自分も便が出ないのか。しばらくブログを呼んでいると便意を感じた。

やっときたー、と。

 便座に座る。まるで赤ちゃんの第一声のようだ。術前は散々出た。

 きょうは昨日の肛門とまったくの別人である。

少しいきむと出た。だがちょろちょろ程度だった。太めのミミズといった感じだ。

 第一声がこれなら、第二声はあるのだろうか。

トイレットペーパーで肛門を拭く。そのときだ。なんとやつがいない。あの悩まされたイボがないのだった。


「おー、さすがジオン」


 と、つぶやいていた。昨日は疑っていたというのに。

 肛門を三度ほど拭き、やつがいないことで表情が緩まる。ただ肛門は痛かったので、あまり刺激しないようにする。これでは自転車に乗られない。

 そしてトイレを出て、先ほどのブログを読む。座っているだけでもお尻が痛い。数十分たつとまた便意を催した。

 次はそれでもミミズ以上が出た。それに血が混じっているということもなかった。

 一呼吸する。イボは消えたし便も出た。難関を乗り越えたという安堵感が出た。あとは診察時間まで待つだけだ。

 医院にやって来た。土曜もたくさんの患者が待合室にいる。

 昨日の女性をいるかと見渡すがいなかった。本日は午前のみ診療なので、術後ということでいるはずだ。どうしたのだろう。

 彼女へ会えなく自分の番となる。

 経過を見るため、直腸指診が行われる。


「いたたたた……」


 と、声は出た。


「はい、経過はいいですよ」


「先生、ジオン注のみでしたけど」


 なぜ切らなかったのかを聞きたかった。


「ジオンでいけると判断をしました。もう小さくなったのでよかったですね」


「はい、便意時になかったので驚きました。あまりいきまない方がいいですか?」


 ぼくはズボンを履きながら聞いた。


「便はいきんでいいです。ジオンで腸が固いから、出し切るようにいきんでいいです」


 まさかそんなことをいわれるとは。


「自転車に乗ると痛むんですけど」


「最初はね、いまに痛みもなくなりますから。乗ってもいいです」


「はい、わかりました」


「では来週来てください」


 礼をいい、診察室を出た。術後というのに攻撃的な先生だ。

 それに次々患者を診るという意思のある先生だった。

 その日も当然のようにお茶割りを飲んだ。

 翌日。

 日曜のこの日は、雨も降り一日自宅にいた。便がもっとも出た日だった。お茶割りは当然いただきました。

 月曜日。

 なんとこの日、便意を感じるのに出ないという現象が起きた。

 これは二年ほど前も起きたことがあった。それが脱肛の原因ではないかと思っているのだが。

そのときは二日間の便秘をした。翌朝便意があるのに出なかった。それはそれは辛い。なんどもその波があり、二時間半その状態か続いた。肛門へフタをしている状態だ。

 そして出たときは、大きなため息を吐いた。長く固いウンコだった。原因はなんだろう。野菜はほぼ毎日食べていた。やはり飲酒かな。

 そんな感じでこの日も苦しんだ。またあのときか、と。

一時間ほど奮闘した。ようやく出たとき、額の汗をトイレットペーパーで拭った。ホッとしてトイレを後にした。もちろん夜はお茶割りを楽しんだ。

 火曜日。

 普通に便が出た。イスに座るとお尻の痛みも緩和されている。

 四日たつけれど、便の出はパーフェクトである。でも昨日の便意があるのに出ないことが引っ掛かった。またいつ起きるのかと悩ましてくれた。自転車に乗るとだいぶお尻の痛みがひいた。お茶割りは日々の友である。

 水曜日。

 相撲界の話題が多い中、日馬富士が引退した。もっと審議をしてからの引退ならわかる。ずいぶん早い引退宣言だ。

 このごろなんにしても厳しくなっている。締め付けがこれほどだと、いまに暴動が起き、日本も治安のわるくなる国になりそうだ。

いまさらであるけれど、もっと規制を緩くしろと思う次第だ。

この日の便は普通に出た。ただ脱肛のときは便意が多かった。この差はなんだ。アルミニウムだろうか。狭まった腸が広がってくれればいいのだが、数カ月は無理だろうと思った。

 サドルに座れば、痛みがだいぶ弱まった。本日もお茶割りをいただくつもり。

木曜日。

 一度目は少し出て、二回目にたくさん出た。術前はウンコにこれほど神経質にならなかったのに、術後は気になっている。



 十月初旬に名医が転院し、いつ受診するかと迷いが出ていた。それは直腸指診と肛門鏡のダブル検査に嫌悪感を抱いていた。だが思い付きで一一月に手術をしてしまった。もし、ジオン注射の激痛手術を知っていたなら、受診は先送りだろう。知らずが仏でよかったのかもしれない。

 これからジオン注をする方へ。話しかけた女性に聞いていないけど、もしかしたらぼくだけが静脈麻酔を効かなかったのかもしれない。それは年寄りの人がふらふらしていたからもある。看護師のせいにしたくはないが、六日たっても左腕は痛い。一発で血管に針が刺されば効いていたのかもしれなかった。

 ただ脱肛は消えた。同じ立場の人へなんといえばいいだろうか。

 自身のタイミングで受診してほしい、としかいえなかった。



つづく



(のり)ぼくは二度と行いたくありません。


では次回に…




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