こんにちは。

なんと清水南高校吹奏楽部がモデルの映画が3月4日(土)から劇場公開です。
それは「ハルチカ」。
アニメではすでに公開されました。今回は実写版とのことです。アニメでやって実写版でやるとは、相当な人気でしょうね。かつてはさくらももこのちびまる子ちゃんもそうでした。
なんといっても原作者の初野晴さんは清水出身の作家です。ぼくが何度も文学賞に送っている時に受賞しました。
みんなに抜かれます。静岡マラソンへでも参加したなら、当然ビリは間違いない。
さて、そんなハルチカにちなんで、ぼくのブラバンの続きを送ります。1から始まっています。番号順に読んでくだされば内情がわかるでしょう。


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ぼくですけど絵が下手です



☆その後のブラバン


 三年が卒業し、ぼくは中学二年になる。春休みは小学校の金管バンドの子がブラスバンド入りたいと練習に来ている。ホルンはぼくとKさんの二人しかいない。そしてKさんにいわれた。

「はまじに三番頼むよ、先輩になるから」

 いきなり三番だ。正直、音楽歴一年の自分が大昇格ではないか。

 野球でいえば八番あたりから四番バッターを打つのに匹敵するのではないのか。

てっきり二番でもいいと思っていた。でも経験者の一年がいきなり三番ではおかしいとKさんはいう。そしてホルンにワタが金管バンドで吹いていた、アルトホルンの女子Нが入部希望といってきた。

小学校時代に見たことがあり、ワタの横で吹いていた女子だ。

「あの、渡辺さんは?」

 辞めたことを知らなかった。

「辞めちゃったよ」

 ぼくがいうと、Hはまさかという表情をして口を手に当てていた。

あと一人入らないと四人そろわない。その後、金管バンドからホルンへは入らなかった。どうするのかとKさんに聞いた。

「なんとかなるよ」

 と、あっけらかんといった。Hはワタと同じ経験者なので覚えが早く二番を担当だ。

 ぼくはといえば、一年前とはくらべものにならないほど楽譜が読めて、夜の解読は終わっていた。そしてずっと四番がいないまま一カ月がたった。

そのころ同学年の女子Aがホルンへ入ってきた。Aはエレクトーンの経験者だ。ブラスバンドより器楽部のほうが合っていると思った。たしか卓球部だったが、一年で辞めたらしい。それでブラスバンドというのもすごい技だ。それもホルン。楽譜は読めてもバジングからで、Hより下になるはずだった。でもKさんは、

「本当はHさんが二番だけど、二年のAさんを二番にするわ」

 ぼくはおかしく思ったが、自分も二年になり三番をもらえた。

 なんともおかしな仕組みだ。全国大会の常連校は一年であろうが三年生だろうがオーディションだ。そのシステムなら理解する。 

 そうなると音楽歴一年ではまた四番だったかもしれない。新入生がホルン経験者なら補欠になりそうだ。

 そして課題曲と自由曲が決まり、ぼくはパート練習に入る。ワタはいないくなったが、もうホルンに自信がつき、三番を演奏した。

 結果だけど、中部大会突破し、県大会で銀賞。そして三年では一番ホルンとなり、県大会で銀賞だった。本当はワタの席だったのにぼくがいた。でもそのころにはもう、ワタのことが頭になかった。

 ぼくがリーダーとなってSさんのようにはいかなかったが、一年生をワンツーマンで教えていたからだ。

 一年の音楽成績は三だったが、二年で五、三年も当然五だった。

 たまに高校生となったOBが現れる。そのなかでよくSさんが来た。『はまじがファーストとはすごいね』といっていた。たしかに大昇格だ。

垂れ目のショートヘヤー、洒落たことをせず古風な感じは変わらない。後輩たちに世話になった先輩と紹介したら照れていた。

高校のブラスバンド部には所属しておらず、茶道部に入っているらしい。まさにそれが合っている。

「Sさん、久々に吹いてみる?」

 と、パート練習のときにぼくのホルンを吹かせてみた。すると、ぼくの初期の音。

「……もうダメだ、鳴らないわ」

 なんとか鳴らそうとバジングで吹いている。

「唇がダメだね、もっと広げないと」

 笑いながらいった。Sさんから入部当初にいわれたことだ。

 後輩たちはその様子を見ているが、知らない先輩なので退屈だろう。ぼくは休憩をとるようにした。

 Sさんは何度も吹く練習をしていると、それでも鳴りだした。

「鳴りましたね」

 といえば、基本のロングトーンを繰り返す。そして三年のときの自由曲を吹こうとしたが鳴らず、代わりにぼくが吹いた。

「へー、はまじもうまくなったね」

「だって特訓やったし、それにもう一番だし」

 こんな具合の会話だった。Sさんに教わったのでいまの自分があることをいったと思う。

 その後、どんな曲でもすんなり吹けるように成長して卒業した。

 その数年後、清水区立第八中学校吹奏楽部は思いもよらぬ大快挙を達成した。

 ぼくが中学を卒業すると弟が入学した。ぼくは自分から入ったのに、弟は兄のようにやれと母にいわれたらしく、渋々ブラスバンド部へ入った。担当は弦ベースだ。なぜそれになったかは知らないが、大きな楽器で運ぶのが大変だっただろう。エレキベースなら楽だが、弦ベースでは背丈はあるし重さは二十キロほどある。

 当時ぼくは東京にいて様子を知らなく、友人が手紙で知らせてくれた。弟が二年のとき東海大会出場し、三年では東海突破した。

 つまり全国大会へ初出場する。これには耳を疑うどころではなかった。吹奏楽で全国大会に出る道のりは高校野球なみである。

 どっちかといえば高校野球のほうがつらいけど。顧問はよくあと数年で八中を去らなければならなく、一度は全国へ行かせてやりたいとぼくの代でいっていた。それだけ自信があるらしく、過去に由比中学のブラスバンド小編成を全国大会へ導いたようだ。

 そんなやり手の顧問だ。八中を本当に全国大会に出場とは心底驚いた。ぼくの代で午前中のみの練習だったが、弟のときは丸一日やったと思う。それだけ練習しないと全国には絶対行けない。テレビ番組『笑ってコラえて!』の吹奏楽の旅で見た人はわかると思う。

 ぼくは一応T高校へ進学した。でもそこのブラスバンド部の人数の少なさと、あまりの下手さに入るのをやめた。たぶんぼくの初期段階のような部で、遊んでやっていける楽しい部活の感じだった。

 そのころは遊びでやりたいとはまったく思わなかった。それだけ八中のブラスバンドで鍛えられていた。

 
つづく

ブラスバンドの思い出です。もう吹けないけれど、ホルンという楽器の音色は後からいいな、と思っています。
当時はカタツムリみたくカッコ悪いと何度も思っていました。
いまでも楽譜はすらすらと読めます。中学1年時代は本当に成長の1年だったのです。
いまでも続く物語の独学にも似ています。ぼくはなにをするにも一人で学んでいくタイプなので、集団行動は苦手でしょうね。

では次回に…


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